、あまい痛みとするどい痛み、どっちがいい?」

雲雀さんは、ふいにそんなことを呟いた。





「はい?」

室内が、数秒、沈黙に包まれた。
わたしは、とうとうその質問の意味を図りかねて訊き返すと、雲雀さんはわたしの声など全く聞こえていなかったかのように、無表情のまま黒板の隣の本棚の処へとしずかに歩み寄って、そのうちの一冊を手に取った。
雲雀さんの細くて綺麗な男の人らしい両の指につままれた、三センチくらいの厚さの小説、”リアル 鬼ごっこ”は、もう古くからその棚へ納められていた証拠とでもいうような、ページ全体を覆う醜く黄色いくすみや、粗雑に扱われたのか所々を惨めに破かれた部分が多々あって、印象的には汚らしく思えた。そんなもの、雲雀さんには不似合いだ、貴方はもっと綺麗なものを手に取るべきだ、とわたしはなぜか大きな声でそう叫んでしまいたくなったけれど、そうしたところで何がどうなるわけでも無いし、何より、雲雀さん本人が不愉快に感じるのではないだろうかと考えて踏み止まった。彼は、うるさいものが嫌いだから。開け放した窓から吹き込む風が、ぬたりと頬を撫でて心地悪い。窓をすべて閉め切ってしまおうかとも考えたけれど、今ここでわたしが動くことは雲雀さんに何だか失礼なような気がして、躊躇った挙句、結局我慢した。紺色の学校指定スカートが太腿の上でゆるくはためいて足が少しだけすうすうして、首筋をつたう生温いあせがむず痒く苛々した。

「聴こえなかった?」

ゆっくり、雲雀さんの形の良い唇がうごいて、言葉を紡ぐ。

「あまい痛みとするどい痛み、どっちがいいか って、訊いてるんだ」

独特の切れ長の目は手元の小説に向いたまま、よく通る抑揚の無い声で、冒頭と同じ台詞を呟いた。
ぱらり、とページがめくれる音だけが、この広い空間で静かに響いた。

「どういう、意味でしょうか」

震えそうになる声を、懸命に抑えながらやっとそれだけを喋る。スカートの端を握り締めた両手が汗ばんだ。頭がぐらぐらして、足元がふらつく感覚がした。背筋がひんやりする。わたしは今から、なにをされる?

「わからないかな」

雲雀さんは、手に持っていたその小説を棚に乱雑に放り込んで、ゆっくり、ゆっくり、わたしのほうへ近付いてきた。視線が、まっすぐ丁度絡み合って、わたしは、咄嗟に後退りをしようと思ったけれど、体が氷みたいに固まって動いてくれなかったので、それをする事は叶わなかった。彼はゆっくり歩いていた筈なのに、直ぐにわたしの目の前へやって来る。教室の狭さを、この時初めて疎ましく思った。「、」あの長い睫を、黒い瞳を、細い頭髪の一本一本をわたしが一々鮮明に確認出来る程に、雲雀さんはわたしの近くまで顔を寄せて、

「あまい痛みとするどい痛み、どっち?」

と、もう一度、問いた。
このとき、わたしは初めて、彼が怒っていることに気がついた。無表情、よく通る抑揚の無い声、それらは傍から普通の者が見れば日常のものと何ら変わりの無いように見えるだろうけれど、流石に2年も3年も、この雲雀恭弥さんというお方のうしろを付いて回ってきたわたしからすれば、その僅かな変化を読み取る事くらいは出来たらしい。巧みに隠された、声に含まれる怒気にも気がついた。
原因は何だったのだろう、思ったけれどそれをこの方に問うなんて到底、この状況では出来ようもなく、仕方無しにわたしは人並み以下に鈍く愚かな頭を、必死に回転させてかんがえる。わたしが、雲雀さんへおかした失態、粗相について。そんなもの、心当たりが多すぎて思い当たりゃしない。わたしは、わたしがこの世に生れて存在してそして雲雀さんのうしろをついて行かせていただくこと自体、粗相なことの様に感じているから。

いつの間にか雲雀さんのそれと重ねられていたわたしの唇から顎にかけて、たらりときもちのわるい液体が、つー、と、したたる感触がした。吃驚してそれに触ると、人差し指と中指の二本指に、ぺったりあかいものが付着した。血だ。つきんと唇の端のほうが痛んで、思わず頭ひとつぶんくらい高い雲雀さんの顔を見上げると、彼は笑っていた。笑っていたといっても、両方の口角が変な風に歪んで持ち上がって、眼差しは完全に笑っていなかった。視線が、早くしろ、と言っているのがわかる。わたしは唾を飲み込んでごくりと喉を鳴らし、その問いに対する返答を何度も反芻した。変な緊張感のせいで、笑いたくもないのになぜかおもいきり笑いたくなった。無意味に表情をつくってみせる。

「するどい、痛み で、お願いします、」


ひばりさん、と続けようとした直後に、頭部になにかしょうげきが、はしった。

Heavy love.
決して甘い痛みをわたしに与えては、駄目。それではわたしは、きっと訳の分からぬ内に貴方に泣いて縋って謝って許しを請うわ そして貴方はきっとそれを酷く嫌う


(070817)