手慣れた仕草で、ちいさい煙草の箱から白い一本だけを引き抜いて口に咥え、右手に控えていた趣味の良い柄の、あかい色をしたライターで火をつける隼人の後ろ姿を、これまた手慣れたように白いベッドのシーツにくるまれたままのすがたでわたしはそれを気怠く眺める。すこしして、ライターを口元から離してすぐ近くの茶色いさびれた机の上に置いた。深呼吸でもするかのように深く深くこの部屋のなかの空気全てを吸い込むみたいにして息を吸い込んでいるのが、その硬くて広い胸や骨ばって男らしく成長した背中が上下する様子から見て取れて、それからまた直ぐにふううう、という風に、大きく溜息のような息を吐いた。薄い唇から灰色のけむりがもくもくと溢れ出て、もともと白っぽかった天井があっという間にますますしろく染まった。換気扇を付けてからにしてよ、というわたしのいつもの抗議を、奇妙なくらいに整った綺麗な笑顔で振り返って、其れまたいつものように私のあかちゃけた細い髪にピアノを弾くにはさぞかし適しているだろうと思われるようなこの長い指をとおしてくしゃくしゃと撫ぜた。子供扱いをされているような気分ではあるけれど、なぜか不思議に不快な感覚にはなることがない。寧ろゆかいな気持ちになるので、わたしも隼人を撫ぜてやろうかと手を伸ばそうとするけれど、特有の体のだるさがわたしの行動をゆるく諫めた。いさぎよく諦めてシーツの中に腕を戻すと、隼人の掌もわたしの頭から離れていった。名残惜しいなまあたたかさがうっすら残って、妙に寂しく為った。

「ねえ、わたしにも一本、頂戴よ 吸ってみたい」

寝転んだまま、媚びるような声でそう訊いてみると、

「女の吸うもんじゃねーよ」

とだけ素っ気無く短い答えが返ってきて、大きな背中をベッドの端のほうにもたれた。
その所為でぎしりと木が軋む嫌な音がして、全体が軽く揺れた。

「女性でも、喫煙するひとはいるでしょう?」
言い返すと、

「吸い始めは咽て苦しいぞ それに、健康に良いもんでもねーしよ」
という、どことなく彼らしく無い声が聞こえた。健康に良くないのなら、貴方だって辞めればいいのに。そう云おうか一瞬だけ迷ったけれど、彼の仕事の事を考えるとどうしても言えずに、喉まで出掛かった言葉をひっそり呑み込んだ。代わりにかける言葉を探す。

「この頃、吸う本数が多くなってきたんじゃないの?」
「・・・・・・ まあ、色々とあんだよ お前の知らない処で」
「色々、って?」
「仕事、とか な」
「嫌なことでもあったの?」
「そりゃあ、不満とか、あるだろ すこしくらいは」
「あら、念願の10代目の右腕様に為れても、まだ不満があるの?」
「それとこれとは、話が別だろ」
「・・・そう」

わたしはそこで質問するのをぴたりと辞めた。馬鹿馬鹿しくなったからだ。
彼は、わたしにうそばかり、つく。

キスをするときだけ、事の最中だけ、抱き締めている最中だけ、熱心にわたしの名を呼ぶ彼に、愛想を付かしたからだ。
彼は、わたしを、誰かの代わりにばかり、する。

深く吸い込むセブンスターのけむりは、いつもわたし以外のひとを思い出す為にあって、
遠くを見つめるそのすべらかな瞼の裏には、いつもわたし以外のひとの姿があって、
幼少の頃の記憶を仄かに残す長い指は、いつもわたし以外のひとを抱き締める為にあって、
その薄く細い唇は、いつもわたし以外のひとと合わせる為だけにある。

だから決して、それらは全て、わたしに吸わせる為の煙では無く、わたしを鮮明にうつしだす為の瞼でも無く、わたしのパサついた、手入れの行き届いていない髪を撫ぜる為でも無く、わたしのかさかさの唇と合わせる為のものではないのだ。


ねえ、貴方は知らなかったかしら。わたしね、本当は、喫煙出来るのよ。そりゃあ、最初こそ、よく咽て泣きそうになったものだけれど、今ではもう普通に吸えるようになりました。貴方よりも、吸う本数は僅かに少ないけれど。
私のハンドバッグの中に常に入れてある、マルボロの赤、ボックス。これがわたしのいちばん、好きな銘柄。隼人と同じ、セブンスターにしようかどうかとも考えたけれど、でも同じ匂いのものを吸うのは・・・味が好みじゃないのも手伝ったのか、どうにも嫌になって、結局これをよく吸うことにした。わたしの愛用グッズ。






「わたし、そろそろ家に帰るね」

わたしが、適当に洋服を着直して洗面室で化粧も為直して、髪も整い終わったころ、隼人は、つい先程までわたしの寝転んでいたベッドにごろんとうつ伏せになって、テレビを見ていた。朝一番に流れるニュースがBGMみたいにふたりの間を駆け抜けて、今の時刻や天気やら事件やらの詳細を知らせてくれる。
締め切ったままのカーテンの所為で陰鬱にかんじる部屋の空気を変えようと、ベランダ側に近づいて、勢いよくその空色のカーテンを左右に押し遣って、窓も開けた。ちゅんちゅんと可愛らしく鳴く雀の声と、爽やかな朝の外気が室内に入ってきて、煙草のにおいと清々しい風のにおいとが交じり合って変な感じがした気がする。これで、この部屋の中の匂いがすべて、きれいになってしまうといい。

「ああ、もう帰るのか?まだそんなに明るくもねえのに」
「すこし、用事があって」
「そか?じゃあ、送って行ってやるよ 準備すっからちょっと待ってろ」
「ううん、タクシーに乗って行くから、大丈夫」
「・・・何でだよ」

明らかにムッとしたような声が後ろから聴こえた。振り返るとそこには案の定、普段以上に眉間に皺を寄せる隼人がいて、わたしはすこし苦笑した。

「だって、隼人は確か、今日は早い時間から仕事がある、って言ってたじゃない?迷惑を掛けるわけにはいかないわ」

静かにたたえた笑顔でそう言ってやると、すぐにはっとしたような表情をして、隼人は黙った。苦虫を噛み潰したみたいな顔。
貴方は相変わらず、嘘を付くのが下手なひとね。もう長いこと、そうやってわたしを欺き続けているというのに。そろそろ慣れ切ってしまえば、お互い楽なのに。ばかなひと、お互いに。告げることも出来ずに、わたしはすぐに隼人から視線をはずして、時計を見やって。

「じゃあ、さようなら」

踵を返してさっさと玄関に行って靴を履く。このハイヒールは、ふたりで買いに出掛けたさきで偶然みつけたもの。彼が、わたしにはこの色のものがとても良く似合うと、例の綺麗な笑顔でそう言って。そしてわたしはその彼の言葉に柄になく浮かれてまいあがって、とても胸が躍った記憶がある。・・・なんて忌わしい記憶だろう。今のわたしには不要極まりない。けれど、それを愛しく思う自分がいることも確かで、またそれも疎ましい。


「っ!!」

大きな声。吃驚して振り返ると、玄関に敷いてあるクリーム色のマットと青いスリッパ、の前に隼人が立っていて、まだ苦虫を潰したような顔をしていた。

「・・・何?」
「・・・・・・あの、な、」

妙に煮え切らない態度。珍しい。本当に、何なのだろう。いつもなら、こういう風に呼び止めたりなんてしない。黙って見送る、そんな人。なのに。普通の表情で、「じゃあ、またな」そう言うだけなのに。


「・・・ごめんな」


何で今日に限って、どうして、そこでそうやって謝るの、わたしに。


「なにがよ、へんなはやとね」

変な声になってしまわないよう、十分に気をつけながら声を発した。わたしはいま、どんな顔をしているのかな。鏡を取り出して、自分の顔を確認してみたい。とりあえず、きっと、あんまり、きれいには笑えていないんだろうな、ということだけは何となくわかった。けれど、隼人はあの、罪悪感でいっぱいですと書かれてあるみたいな表情でうつむいたままだから、きっとわたしのかおまでは確認できていないと思う。

いそいで前に向き戻って、ノブに手を掛ける。ひやりとした金属の冷たい感触。この感覚を、一生忘れることがないように、忘れたりしないように、わたしの掌につよく刻み込もうと思った。無理なことだとは、理解しているけれど。

ノブを回す前に、もういちど、もう一度だけ名前を呼んで欲しくて、「じゃあね、隼人。お仕事、頑張って」振り返らないまま、背後に立ったままであろう隼人に声を掛けた。これはいつもの言葉。最後に掛ける言葉。

「・・・・・・じゃあな、、ありがとう」

ノブを回した。わたしのてのひらでぬるく温まった、金属のノブを。







帰ったら、すぐにシャワーをあびて煙草を吸ってマニキュアを塗りなおして、そうしてそれが渇いたころ、わたしは雑然としたまんまのベッドに潜り込もう。枕元においてあるうさぎのぬいぐるみを手にとって抱き締めて、そして、そのまま眠ってしまおう。起きたら、いちばん仲の良いあのこに電話をかけて、取り留めのない話をしよう。一緒に買い物に行こう。ファミレスでごはんを食べよう。それから、それから、また家に帰って、シャワーをあびて煙草を吸って、その吸殻をベランダのゴミ袋に捨てて、それから、わたしはようやく、また、泣いてしまおう。


(070916)
(お題配布サイト 888様から)